株式会社ESF

2020.05.15

コロナ騒動


2月の末にフランスへ行かないかと誘いを受けたのは年も改まった1月の初め。 

2月末の計画を練る内にお互いの仕事の事情もあり2月13日から23日までの10日間の計画でまとまった。 

今回の旅行はTGV(フランス新幹線)在来線を使いストラスブルグからマルセイユを経由してニースまで「地方料理を探究する旅」でいつも利用しているレンタカーの旅とは一寸趣が違った旅だが計画を進める内に新型コロナウイルス感染のニュースが報道されフランスでもアジア系への風当たりが強くなりパッシングが起こっているとの情報が入ったが、所詮中国の問題だと簡単に考え渡航計画を継続することにした。 

2月13日パリ到着そのままT G Vでストラスブルグに移動。その晩はアルザスワインと土地の料理「タルトオニオン」「シュークルート 」「ベッコフ」を満喫しホテルに戻った 。

翌朝T Vをつけると真っ先に日本の「ダイヤモンドプリンセス」のコロナ騒動が詳しく報道された。実はフランスでは1月24日に最初のコロナ感染が確認されたが1月30日で確認された感染者は6名。内中国人観光客が4名でもう一人はフランスと中国を行き来きしていた中国系フランス人と患者を見た医師。1月29日にはフランス保健相は武漢に滞在するフランス人に帰国を促し31日医師、看護師を専用機で派遣。フランス人を連れ戻したが帰国後14日間の隔離観察をすることを決定。2月9日までには中国への飛行運行を中止。日本の新聞でもフランスでアジア人(主に中国人)の受け入れを中止せよ等のフランス世論の報道がされる様になってきたが、 

フランス最初の死者が出たのが2月15日80歳の中国人観光客。この時点では感染者数1位中国、2位日本3位韓国という状況。我々が到着した2月13日現在では不安が蓄積されるもののそれほど逼迫する状況ではなかった連日横浜港に係留されたダイヤモンド・プリンセスの報道が報道され続けた。フランスではこの頃から中国人観光客入国を禁止し、フランス有名観光地からは姿が消えた。一昔前は日本のバブルで日本人観光客をあてにする土産物店免税店が乱立し各地では日本語の案内があちらこちらで見られたが、日本語は放逐されすべて中国語に変わってしまった。現在全く中国人観光客の居ないフランスの観光地は静かで本来のフランスの観光地らしい佇まいを見せるが、つい先日まで中国人によるオバーツーリズムで観光制限を叫んでいたものの、コロナショックが始まったばかりの観光地は観光客減で瀕死状態。我々は移動の列車は空いているしアジア人叩きにも会わず観光地は人出があるわけで無くガラガラの状態。コロナ騒動を毎日T Vで見てはいるがマスクをしているフランス人は皆無の状態でなんと無くコロナ騒動がよそ事の様で、我々は旅を満喫。 

2月12日にはコロナ感染が拡大しているイタリアといってもフランス国境に近いヴェンチミリアまで足を踏み入れたがコロナの影響は全く感じられず陽気なイタリア人でマスクをしている人はここも皆無。13日旅の最終地ニースからパリ(トランジット)経由で帰国の途。パリまでの国内線乗客はそこそこだったが、パリ 東京間のエールフランスはガラ空き。あまりの空席の多さでアナウンスでビジネスクラスの案内があった。一寸広いビジネスクラスは差額2万円、正式のビジネスクラス差額料金6万円。なかなか乗れないビジネスクラスがこの料金で乗れるならと申し込んだ。飛び立ってすぐにウエルカムドリンクのシャンパン。しばらく経つと食前酒、食事もビジネスクラスは別格シャンパンは飲み放題。あたりを見渡すとほとんどが空席。おかげで機内コロナ感染リスクはゼロだった。帰国して冗談で14日間は近づかないほうがいいぞ、なんて冗談を言っていたが、フランスのコロナ感染は帰国後拡大を続け3月16日にはフランスの感染者は24,400人余り、イタリアは5万人越え。3月16日にはマクロン大統領はフランスすべてのレストラン、バーの営業、ほとんどの企業の活動閉鎖を命令、国民の外出禁止、シャンゼリゼは人一人居ないシャッター街に変わって外出取締のための警察官10万人を配置。外出許可書を持たない違反者には16,000円近い罰金を課し厳戒態勢を発令。 

もし最初の計画通り2月末の旅行を実行していたら、帰国後14日間隔離か自宅軟禁になっておいたかもしれないし、航空路が閉鎖されているので帰国できなかったかもしれない。 

それよりもすべてのレストラン 、バーは強制的に営業を停止され食事どころではなかった。 

フランスでデモに遭って計画を変更されたり、ガソリンのストライキ、車のエンジントラブル等色々な事件に遭遇してきたが、今回のコロナ騒動、危なく巻き込まれずに済んだことは不幸中に幸いだったかもしれない。 


酒井一之シェフ

法政大学在学中に「パレスホテル」入社。1966年渡欧。パリの「ホテル・ムーリス」などを経て、ヨーロッパ最大級の「ホテル・メリディアン・パリ」在勤中には、外国人として異例の副料理長にまで昇りつめ、フランスで勇名を馳せた。80年に帰国後は、渋谷のレストラン「ヴァンセーヌ」から99年には「ビストロ・パラザ」を開店。日本のフランス料理を牽引して大きく飛躍させたカリスマシェフとして、大きな影響力を持つ。著書多数。